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2014年8月12日~15日 日刊工業新聞 「勝つ」中小企業のものがたり

第1回「ITに照準 独立への一歩」

勤続20年の転機
第1回は、弊社代表取締役の木村隆夫が、大手製薬会社を辞め、ITに照準を定め木村情報技術を起こすまでの経緯が掲載されました。
(以下、内容要約)
2005年7月、木村隆夫は佐賀市で木村情報技術を起こした。起業家表彰をいくつも受賞し、14年2月からは民生委員にタブレット端末を配布する実証に参加し大企業との連携で存在感を高めている。
同社の特徴は、木村が前職で培った医薬業界の知識やノウハウを事業に生かしてる点だ。主業務の一つがWeb講演会の企画運営。企画から講師の応接まで携わる。木村情報技術の躍進は、木村のMRとしての経験があったから。もちろんMR時代の木村は、そんなことは意識もしていない。
勤続20年が近づいた04年、転機が訪れる。新聞1面トップに掲載された自社の合併記事を見て、木村に独立心が沸き上がった。以前から「自分がやりたいことをやり、世にまだないことを具現化する」には、会社が大きすぎると感じていたからだ。
その日から起業セミナーに参加するなど、独立に進み出す。セミナーを受講するうちに起業家仲間ができると、IT分野を志す人が多いのに気付く。現在ほどITが生活に根付いていたわけではなく、木村はそこに照準を定める。そして05年3月に退職し、起業家としての人生を歩み始める。

第2回「同志スカウト 技術の支えに」

競合避け佐賀で創業
第2回は、創業地として佐賀を選び、ITに精通した現取締役CIOの橋爪康知と出会い、技術の支えを得て事業の芽を探す日々までの経緯が掲載されました。
(以下、内容要約)
創業地に選んだのは社会人としての振り出しの地、佐賀だった。「佐賀で起業していなければ、ここまでになっていない」と木村は言う。
佐賀に地縁があったわけではないが、妻で専務の敦子の出身地で親戚がいた。起業や人生の心がけを学んでいた師の「支援者や賛同者がいない事業はひとりよがりでしかない」との言葉も決め手になった。
自宅を本社に創業したが、事業はまだ固まっていなかった。そもそも木村はシステム分野は門外漢。社内にITに精通した人間がいないため、つてを頼りITに詳しい人に教えを請うた。
その中に後に取締役CIOとなる橋爪康知がいた。橋爪は佐賀大学大学院の博士課程に在籍するかたわら、仲間とベンチャー的にシステム製作を手がけていた。木村は橋爪を自社にスカウトする。「自分がやりたいことができる」。橋爪は二つ返事で入社を決め、木村情報技術は大きな技術の支えを得た。
その後、インターネット会議システムをはじめとして事業の芽を探す日々の中で、メンバーも5人程度になり活気も出てきた。設立第1期の売上高は90万6000円。金融機関に「億単位のビジネスになる」と平気な顔で話す木村の発言にヒヤヒヤしながらも、専務の敦子は木村を支え続けた。しかし苦悩の時期はまだ続く。

第3回「医薬向けに転換、成長軌道」

深夜の"最後通告"
第3回は、製薬会社での経験を生かして医薬業界のニーズ取り組みに方向転換し成長軌道に乗せるまでの経緯が掲載されました。
(以下、内容要約)
06年4月初の自社開発製品・インターネット会議システム「3eConference」の完成にこぎつける。しかし、競合のない佐賀だったものの、需要もなかった。
木村は佐賀県地域産業支援センターのコーディネーターである今釜氏に毎日のように相談した。今釜氏は事業の特徴性のなさを懸念し、製薬会社での経験を生かすべきだと説く。だが木村は医療関係と異なる場所で戦いたかった。今釜氏からの深夜のメールは、業を煮やした"最後通告"だった。
木村の躍進を決めたのは、医薬業界のニーズ取り込みに方向転換したことにある。民間だけでなく、文部科学省の医療関連事業で多くの大学に採用され、これにより、木村らの技術の信用は高まっていく。
さらなる躍進は次の製品がもたらした。現在の事業の根幹サービス、鮮明な動画が特長の多地点高画質ライブ配信システム「3eLive」である。
さらに木村は経験とノウハウを生かしてセミナー運営へ手を広げる。製薬会社の要求が木村にはわかる。前職で18年間行ったことだからだ。競合する大手に価格で負けたことがあったが、顧客は戻ってきた。
風向きは完全に変わった。売上高は2期目に約3000万円だったが、3期目に1億6700万円を計上した。ここから快進撃が続く。

第4回「世界で活躍できる若者育成」

高専生とプログラム開発
第4回は、木村情報技術としての今後の将来像、そして支援を受ける側から支援する側"支援者"としての挑戦について掲載されました。
(以下、内容要約)
1期目に100万円に満たなかった売上高は現在、10億円を狙える規模になった。
12年10月の東京を皮切りに、都内2カ所と大阪1カ所に自社スタジオも構えた。地方都市への拠点拡大、サービス拡大も視野に入っている。米国アトランタに置いた拠点でも今後のビジネスの広がりを見込む。
ただ、木村に将来像を尋ねると控えめな言葉が返ってくる。社員を守るためには会社の存続が最重要。その堅実経営を志す姿勢が言葉に表れている。
顧客や社会の求めに応えていくことが、木村の優先順位の高い位置にある。多くの人々に支えられて創業2年間の苦悩を乗り越えてきた。そして今、自身に力を与えてくれたような"支援者"になろうとしている。
14年3月、子会社「ASKプロジェクト」を福岡県大牟田市に設立した。取締役CIOの橋爪を社長とし、有明工業高等専門学校の学生らと連携してプログラム開発を行う。民生委員にタブレット端末を配布する実証ソフトは、法人化前のASKプロジェクトが手がけた。
「グローバルに活躍できる若者を育てたい」。その思いはグローバル企業を相手に働く、自社の社員育成にも通じる。「世にない新しいものやサービスで、人に喜んでいただく事業を安定して継続する」。創業から10年目に入り、木村の「やれること」は大きくなった。だが挑戦は始まったばかりだ。